9月8日。 二度の延期を経て、麻枝の全身全霊を込めた新作が、 ついに審判を受けることになった。 オタクの聖地・秋葉原は、 午前0時発売のAIRに群がる鍵っ子であふれかえり、 歓喜の叫びが夜空に吸い込まれてゆく。 特典を抱えた鍵っ子が、息を弾ませながら、 不規則にうねる行列を横目に走り去ってゆく。 彼らの熱気は天を焦がさんばかりに燃え上がり、 にじみ出る汗は街灯を照り返して七色の輝きを放つ。 悲鳴と怒号が不協和音を奏で、前人未到の喧騒が深夜の電気街を包む。 信徒は恍惚の笑みを浮かべ、 ウォッチャーはそんな彼らを苦笑まじりに見つめている。 雲の切れ目から射し込む月明かりは、 天の啓示を連想させるほどに神々しくまばゆい。 夜空に抱かれた無数の星は、鮮やかな花火さながらに瞬いている。 人々は、歴史の証人となれたことを喜び、 肩を寄せ合いながら空に向かって歌い上げる。 夢におぼれる虚ろな瞳、うわごとを刻む乾いた唇……。 吹き抜ける冷たい風が頬をなで、失いかけた自我を現実に引き戻す。 しかし、彼らは飽きることなく想いを馳せる。 ――AIRが与えてくれるであろう、新たな感動に。 数日後。 AIRを絶賛する声がwebを席巻した。 ノスタルジアを想起させるシナリオ、心の琴線に触れるメロディ、 極限まで描きこまれた美麗なCGがつむぎだす、 儚いまでに哀しく描かれる母子の愛に、人々の瞳には感涙があふれ、 せつない想いに胸を締めつけられたのだ。 果てしなき時の流れ。 時を越えて受け継がれる悲しい記憶。 あわれむほどに弱い人の心。 夢心地で物語を見守り、そして結末を迎えたとき、 深い感傷に満たされた心に、何かが産み落とされた。 彼らは、それを表現する術をもたない。 ただ一言。 ――素晴らしい。 誰もが、そう漏らした。 東天満のビルの一室に、高らかに祝杯を挙げる者たちの姿があった。 この世にAIRを送り出し、覇王の座を手中にしたkeyの面々である。 彼らはみな一様に頬を上気させ、 とめどなく押し寄せる勝利の喜びに身をゆだねている。 つぶらな瞳は明るい光をきらめかせ、 アルコールに濡れた声帯はなめらかに震える。 ワインを注がれたグラスに唇をあてる麻枝に、 折戸が軽やかな足取りで歩み寄った。 「やったな、麻枝」 「ああ。俺たちの実力からすれば当然だが、やはり嬉しいものだな。 地団駄を踏む下川の姿が目に浮かぶよ」 そう言って、地平線の彼方にあるアクアプラス本社に視線を向ける。 万感の想いを瞳に込めながら、麻枝はゆっくりとうつむく。 長かった。 この業界でトップを取ると誓ったあの日から、もう五年が経とうとしている。 本当にいろいろなことがあった。 信じがたいほどの薄給で酷使された、駆け出しの頃の毎日。 いたるや折戸、久弥との出会い。 パクリ野郎だと罵倒されたタクティクス時代。 くされヲタの機嫌を取るために仕方なく作ったKANON。 電波を撒き散らす守銭奴の介入。 幾多の困難の末、今年、ついにAIRは完成した。 そして、業界はこの俺にひざまずいたのだ! 見たか、YETめ。 俺に限界などないことが、これでよく分かっただろう。 軽率な言動を悔やみ、吠え面をかくがいい。 勝利を宣言するように、麻枝が高い笑い声を上げた。 そんな同僚の心情を察してか、折戸は口元を緩め、薄く笑う。 今ごろ、下川はどうしているのだろうか。 高橋と水無月は独立し、果ては宇陀児にも逃げられた。 残されたのは、同人意識まるだしのペド野郎。 しかも、なにを血迷ったのか、次回作は3Dアドベンチャーだという。 落ちぶれたといっても、リーフは俺の古巣だ。 復活を期待する気持ちがなかったとは言えない。 それだけに、下川には失望だ。 好きな所まで落ちるがいい。 俺は、さらなる高みを目指して羽ばたく。 折戸は、脳裏にこびり付いた過去を流し去るように、 グラスのワインを一気に仰いだ。 思考を元に戻し、饒舌を滑らせる二人のもとに、 きらびやかなドレスを引きずりながら、いたるが歩み寄ってきた。 「随分とお酒が入ってるみたいね、 普段はあんまり飲まないくせに。よっぽど嬉しいのね」 いたずらっぽく笑いながら、いたるは交互に二人を見やる。 相手の瞳に、ほろ酔いした自分の姿を認め、麻枝と折戸は吹きだした。 いつになく緩んだ頬が、どうしようもなくおかしかったのだ。 「それはそうと、久弥くんが居ないんだけど、どうしたのかしら」 周囲の人ごみを見回しながら、いたるが怪訝な表情で呟く。 いたるの指摘で思い起こしたのか、麻枝と折戸も顔をしかめる。 振り返れば、久弥の姿は今朝から見あたらなかった。 どうせすぐに来るだろうと、誰も気にとめなかったのだが、 祝勝会が始まった今も、久弥の姿は影さえ認められない。 「どうしたんだろうな。電話でもしてみるか?」 「そうだな」 麻枝は携帯を取り出すと、ためらうことなく久弥の番号をコールした。 数秒後、麻枝の眉間にしわが寄せられた。 「……電源を切ってやがる」 苛立ち気味に携帯を仕舞い、いたると折戸に視線を転じる。 「本当にどうしたのかしら。 急な用事が入ったとしても、久弥くんなら必ず連絡くらい寄越すはずなのに」 久弥の几帳面な性格を想起しながら、不審な行動に首をひねるいたる。 麻枝と折戸も思いあたる節がないのか、 親指と人差し指をあごにそえながらうつむく。 三人の視線が床の一点で交わろうとしたその瞬間、爆音が鼓膜を震わした。 「この音は……」 聞き覚えのある音に、麻枝が窓から身を乗り出し、 敷地内の駐車場を見下ろすと、そこには見慣れた男の姿があった。 しかし、どこかおかしい。 ちからなく駐車場に立ち尽くし、夜空に視線を泳がせているように見える。 「久弥くん、どうしたのかしら」 いたるは、麻枝の肩越しに、心配そうに久弥を見つめる。 不吉な予感が、麻枝の脳裏をよぎった。 それはまさしく、長大な時空を共有してきた者にのみ与えられる、 霊感とも形容できるものだった。 次の瞬間、麻枝は祝勝会の会場を飛び出していた。 驚いたいたると折戸は顔を見合わせ、麻枝の後を追った。 「久弥!」 冷たい秋風を切りながら、麻枝は戦友の名を叫んだ。 しかし、聴覚が機能していないかのように、 久弥は宙の一点を見つめ続けている。 互いの吐息を感じ取れる距離まで近づいたところで、 久弥はようやく向き直った。 麻枝は絶句した。 精気を失った瞳、からからに乾いた唇、やせこけた頬。 吹き抜ける風に髪をなびかせながら立ち尽くす久弥は、 言うなれば、抜け殻のようであった。 「どうしたんだ、いったい……」 痛々しい姿を見つめながら、麻枝は声を絞り出した。 遅れて到着したいたると折戸も、 変わり果てた久弥を視野に収め、驚きのあまり言葉を失った。 視線を注ぐ三人を順に見やり、久弥は再び天を仰ぐ。 降り注ぐ星の光は痛いまでに冷たく、 やつれた久弥の頬をいっそう青白く染め上げる。 風に吹かれる雲は、月明かりを明滅させながら、あてもなく流れてゆく。 駐車場の縁に沿って並ぶ白熱灯は、アスファルトに濃淡のある模様を描き出す。 時は、静かに流れた。 押し殺した声が、永遠とも思われた沈黙を破った。 「おめでとう。大成功なんだってね」 悲哀に彩られた瞳に、固唾を飲む三人の姿が映し出された。 「これは凄いことだよ。みんなに絶賛されるなんて」 その声は、死に瀕した小動物の喘ぎのように弱々しい。 「もう僕なんて必要ないね。君らだけで十分やっていけそうじゃないか」 「なにを言ってるんだ、久弥」 無機質な独白に耐えかねた麻枝が、強い意思を込めて声帯を震わした。 久弥は、自嘲ともとれる笑い声を漏らし、再び星の海を仰ぐ。 「隠さなくてもいいんだよ。 非難されてることが分からないほど、僕は馬鹿じゃない……」 いくらか、久弥の表情から固さがとれたように見えた。 「僕は信じてた。『萌え』こそがエロゲーの命だって。 だから僕は、ずっと萌えキャラを書き続けてきた。 そうすれば、みんな誉めてくれた。最高ですって言ってくれる。 その瞬間、僕はたまらなく幸せな気分になれる。 だって、誰かに必要とされることほど嬉しいことはないからね」 瞳に映った星の大海が、緩やかに波を打った。 「今だから言えるんだけどね、麻枝、僕はAIRのデバッグをしてた時、 これはダメだなって思った。キャラ萌えの要素が全然ないんだもの。A IRはこける、そう確信した」 麻枝は、無意識のうちに乾いた唇をなめた。 「だけど、それは僕の思い違いだった。AIRは大絶賛。 みんな口を揃えて言う。最高のシナリオです、って。 そして、こう付け加えるんだ」 ――久弥はいらない。 冷気にさらされた指先が、わなわなと震える。 そして、押さえ込んでいた感情を吐き出すようにまくしたてる。 「おかしいよ、絶対。萌えがいらないなんて。 皆なんの為にエロゲーをやるんだい? 萌えるためでしょ。 どうしてそれを否定するようなことを言うんだ。 そんなのはギャルゲーとさえ呼べないじゃないか」 久弥は叫ぶ。 「売るためにエロゲーの名をかたるなんて、萌えに対する冒涜だよ!」 懸命に押し出された涙声は、聴く者の胸を執拗に突き刺した。 なぜなら、久弥の非難には反論の余地がなかったからだ。 麻枝は汚れた過去を、苦虫を噛み殺す思いで振り返る。 彼がAIRで表現したかったのは、 これまでの作品からも分かる通り、家族の愛だった。 親子の絆を作中で表現しきった自信はある。 18禁とする必然性などなかった。 だが、麻枝は妥協した。 より多くの名声を得るために、彼は18禁という安易な道を選び、 エロ無し萌え無しという、 エロゲーとしては前代未聞の作品を世に送り出してしまったのだ。 そして、それを否定するどころか肯定さえするいたると折戸。 名声という快楽に溺れた彼ら三人は、久弥から見れば、まぎれもない反逆者であった。 埋めることの出来ない溝が、久弥と麻枝たちを静かに隔ててゆく。 誰も、言葉を発しようとはしない。 ……雷鳴が轟いた。 見上げると、宝石箱をぶちまけられた漆黒のキャンバスは、 分厚い雨雲に覆われていた。 大気を泳ぐ雨粒が、立ち尽くす子羊の肌を激しく打ち据え始めた。 幾千もの水の槍が視野を斜めに貫き、5メートル先さえ見通すことが出来ない。 しかし、その場を離れようとするものは一人もいなかった。 不意に、人の影が崩れ落ちた。 「久弥!」 麻枝が叫んだときには、すでにアスファルトに身体を預けていた。 雨粒がアスファルトを叩く音を救急車のサイレンが破るのは、 それから五分後のことであった。 2001年3月。 業界を駆け巡った衝撃に、誰もが耳を疑った。 ――keyの解散宣言。 突然のそれは、憶測が憶測を呼んだ。 ある者は語る。 「社長の横暴に腹を据えかねた」 またある者は語る。 「ビジュアルアーツの内部分裂が原因だ」 錯綜する推測は、どれも上面を撫でるものでさえなかった。 keyの面々は、誰もこの件に関しては口を開こうとはしない。 天下を取ったkeyに何が起こったのか。 人々は、限られた情報を頼りに想像を膨らませることしか出来ないはがゆさに、 ただ胸を詰まらせるばかりだった。 2001年5月。 多くのファンに惜しまれながら、keyは正式に解散した。 ビジュアルアーツ離脱に際して、麻枝らには多くのメーカーから声が掛けられたが、 差し伸べられたその手を掴む者はいなかった。 理由は分からない。 そして、彼らがその後どうなったのか、知る者はいない。 ファンは願った。 彼らがいつか、新たな感動を届けるために帰って来てくれることを。 多くの時が流れた。 本当に多くの時が流れた。 しかし、ついに、その願いが聴きいれられることはなかった。 人々は知っていた。 季節は巡り、全ては想い出の彼方に還ってゆく。 失われるからこそ輝く想い。 かけがえなのない日常。 さりげない優しさ。 なにげない幸福。 感謝しよう。 今も色あせない感動を与えてくれたことを。 胸に刻もう。 小さな勇気をくれたことを。 そして伝えよう。 彼らから受け取った全てを。 ――――――――― 鍵列伝・完 ―――――――――次を読む
【TOP】