悲劇…もしくは喜劇の幕は上がろうとしていた。 ビッグサイトには早朝から長蛇の列ができていた。 徹夜組を排除するため、始発組の後ろに回すという方針は、 確かにスタッフに伝えられていた。 だが、そんなことはkey、D.O、 いずれの信者らも承知の上だった。 特にKeyの信者は、leafとかなりの部分で重なっているため、 情報を入手することはたやすかった。 1駅前で夜を過ごし、始発と同時に乗り込む。計算に狂いはない。 そして、彼らは知っていた。 こみパスタッフの数が予想以上に少ないこと、 そして、士気に問題を抱えていることを。 国際ブックフェア2000のわき道から会場内に入れることも、 彼らはキャッチしていた。 そして、それをスタッフが制止に向かった時には、 残りの列をさばききれないということも。 制止するか、しないか。 どちらに転んでも、問題はなかった。 彼らにとって、このイベントは 「参加する」ことに意義があるのではない。 「壊す」ことに意義があったのだから。 「…始まるな」 麻枝は大阪某所のモニターの前で祭りの開始を待っていた。 熱心な信者からは、麻枝のもとに逐一、情報が届けられていた。 「壊せ…壊すがいい。すべてを…何もかもを」 麻枝の顔に、モニターの光が映される。 どこからどう見ても、絵になる光景だった。 …モニターに映っているのがCCさくらでなければ。 「始まりますね」 菅野はアーベル社長室で時を待つ。 高橋がアクアプラスに辞表を郵送した件は、すでに連絡を受けていた。 『あの会社には…もういられませんから』 昨日の高橋の電話の声が、まだ耳に残っていた。 「行き先はあるのですか?」 『さぁ…いざとなったら自分で作りますよ』 「協力しましょうか? 私のところは大所帯ではありませんが」 『気持ちはありがたいのですが…俺は、東京が嫌いですから』 「…判りました」 『やれることは…全部やりましたから』 高橋の言葉を何度も反すうし、菅野は目をつぶった。 あとは、その時を待つだけ。 「思い切った方法だな」 大槻は、高橋からのメールに目を通しながらつぶやいた。 北海道きっての策士で知られる大槻も、高橋の策には舌を巻いた。 「切られたら切り返す…それしか選択肢はない、か」 下川に『切られた』時の高橋の目を、大槻は思い出していた。 強い、意志を持った目。敗者のそれではなかった。 そして、復讐の時は近づいていた。 あと1時間。 「頑張れ」 大槻はモニターに、ただ一言つぶやいた。 「あれじゃ、やってらんないよな」 あるボランティアスタッフはつぶやいた。 「人は少ない、人遣いは荒い、おまけに正規スタッフは働かない…」 「そう言うな。こんな腐った祭りは、もうこれきりにしたらいいんだから」 別のボランティアスタッフが慰めた。 「とりあえず、怪我しないことだけを考えろ。 何かが起こったらまず、自分の安全を考えることだ。 褒められたことじゃないが、仕方ない。 スタッフにとって、俺たちは所詮…捨て駒にすぎないのだから」 「まずは自分の安全…ですか」 「勝手なこととは判っている。だが…それ以外に方法はないのだからな」 ボランティアスタッフの士気は、指揮系統の混乱で、極度に落ちていた。 一体となった運営など、望むべくもなかった。 「本当に大丈夫なのか?」 ブースの下川の顔には焦りがあった。 「高橋。人員配置に問題はないと言っていたじゃないか」 「言いましたよ」 高橋の唇が、かすかに歪む。 「どう見ても、あれは人員不足では…」 「大丈夫です。この私が大丈夫と言うのですから」 「しかし、あれはだれが見ても…」 「人間には能力というものがあります。 精鋭の彼らには、あれが本来の力量なのです」 「…」 「私が失敗したことがありますか?」 「…確かに」 「なら、信じればいいのです。…信じれば」 「…」 下川の顔に、わずかに安堵が戻る。 そして…高橋は信じていた。 このイベントの失敗…喜劇の成功を。 そのすぐ側には、朝から険悪なムードのみつみと甘露がいた。 甘露にとって、エルフからの誘いは、実のところ魅力はなかった。 原画に対する扱いのひどさ、社員の酷使ぶり、 そして何よりも、甘露にメジャー志向はなかったからだ。 生涯一同人作家、それが甘露のスタンスなのだから。 だが、みつみの横暴に頭を痛めていた彼にとって、 昨日の出来事は、今の自分の立場を疑うきっかけにはなった。 『なぜ…ここでなくてはいけない?』 甘露の自問は続いていた。 逆に昨日みつみが見た光景は、上昇志向の強い彼女にとっては、 耐えられないものだった。 なぜ自分でなくて甘露なのか。ずっとそのことが頭を占めていた。 口を利かない2人。 そして、その間で、なかむらと鷲見は頭を痛めていた。 どうすれば、2人を仲直りさせることができるのか、と。 そのことがピリピリしたブースのムードに、 一層の緊張を与えていた。 臨界点は、すぐそこにあった。 そして、会場のシャッターが開かれる。 少ない人数に右往左往するスタッフとボランティア。 表面上は…うまくいっているはずだった。 列の数人が、ブックフェアのわき道へと移動する。 スタッフの目をごまかすための裏道。そして…気付かせるための。 数人のスタッフが、彼らの『不正』に気付いた。 ただちに取り押さえようと、その場を離れる。 警備が手薄になる。 彼らはそれを逃さない。 『GO!』 どこからともなく、そんな声が聞こえた。 それが合図になった。 列は一気に会場に突入する。 手薄になった警備に、それを止める力は残っていなかった。 濁流は、一気に会場をのみ込んだ。 彼らに目的はない。 いや…一つだけだった。 会場を破壊しつくすこと…それだけ。 身の危険を感じたスタッフは逃げた。 会場内は完全に統制を失った。 濁流の大群は走った。 叫んだ。 そして…破壊した。 すべてを。 完全に。 思いのままに。 混乱。 破壊。 恐怖。 すべてがそこにあった。 「何があったんだ!」 下川の悲鳴がこだまする。 ブースの空気は張り詰めていた。 「高橋、あれは一体…」 下川が振り返った先には…高橋の姿はなかった。 「高橋…高橋! 貴様…」 謀られた。ようやく下川はそれに気がついた。 「貴様あぁぁぁぁ!!」 下川の絶叫が、ブースにこだまする。 そして。 すでに会場を離れた高橋は、 ゆりかもめの中で一人、満足の笑みを浮かべていた。次を読む
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