「血の宴」事件から二週間、騒動は、収束しつつあるように見えた。 折戸の体調もいくらか良くなり、ようやく新作の製作に着手できるところまできていた。 しかし、新たな火種がくすぶり始めていることを、keyの面々は知るよしもない。 季節は移ろい、冬。 林立するビルの合間を縫うように吹き抜けていた秋風が木枯しに変わり、 吐く息は白い粒子となって雲散する。 人々が背中を丸めながら街を行き交うある日、ビジュアルアーツが凶報に揺れた。 KANONを焼いた万単位のCD−Rが、 何者かの手によって無料配布されているというのだ。 犯人の正体は、すぐに察しがついた。 心当たりはただひとつ。 「リーフめ!」 怒りに身を任せ、麻枝が机を叩いた。 「まさかこんな汚いまねをするなんて、僕らはリーフを過大評価してたみたいだね」 こみ上げる義憤を抑えながら、久弥が呟く。 「落ちるところまで落ちたわね、下川くんも」 いたるが、哀れみに満ちた溜息をつく。 大阪市東天満のビルの一室。 信じがたい惨事に、誰もが、 葬列を見送る遺族のように、その表情に影を落としていた。 皆が皆、視線を伏せ、怒りのはけ口をさぐるように沈黙を守っている。 時折つむぎ出される言葉も、途切れ途切れであとが続かない。 壁にかけられた時計の、時を刻む針の音だけが、 彼らの鼓膜を静かに打っている。 一方、keyの副代表である折戸は、社長室で今後の対応を協議していた。 警察の捜査が終わるまで、いたずらに騒ぎを大きくしないことが確認されると、 折戸は、麻枝らの待つ部屋に戻った。 折戸は、協議の結果を簡単に説明すると、休むまもなくパソコンと向き合う。 再び荒れるであろう掲示板の沈静化に努めるためだ。 「働きすぎよ、折戸くん。顔色が悪いわ、少しは休まないと」 身を削って働く折戸を見かね、いたるが休息をとるよう勧める。 麻枝と久弥も、ディスプレイを見つめる折戸に歩み寄り、 限度をわきまえない同僚をたしなめる。 webの管理人として鍵っ子をなだめ、 副代表として社長と協議を重ねる折戸の体力は、確かに限界に近づいていた。 連日連夜の激務に、頬は血の気を失い、瞳に宿っていた生気の灯火は弱々しく揺れている。 額には冷たい汗をにじませ、キーボードを打つ指は小さく震えている。 いつ倒れたも不思議でないほどに蓄積された過労は、誰の目にも痛々しく映る。 しかし折戸は、責任感か、それとも下川への対抗心か、 いたるの手を無言で払いのけた。 「言って聴くような奴だったら、 トップを取ろうなんていう大それた考えは抱かないだろうよ」 いつだったか、折戸の勤勉ぶりを見て、麻枝がそう評したことがある。 虚ろな視線でディスプレイを見つめる折戸の姿は、 その評価を揺るぎないものとするのに十二分だった。 視界の中心で、人の影が崩れ落ちた。 「折戸!」 最初に声をあげたのは、最も近い位置にいた久弥だった。 片膝をつき、床に伏せる折戸の肩を抱き上げる。 呼吸は荒く、全身を巡る血管は青白く変色している。 にじみ出た汗が滝のように流れ、床に染みを広げてゆく。 「折戸、大丈夫か?」 麻枝が、悲痛な叫びで友を案じた。 しかし、折戸は答えない。 薄れゆく意識のなかで、折戸が最後に聞いたのは、 友の声ではなく、救急車のけたたましいサイレンだった……。 白一色に染め上げられた病室で、 同僚に見守られながら、折戸は静かに寝息を立てていた。 医師の診断によれば、症状は単なる過労だが、 心肺機能に多大な負荷がかけられており、 今しばらくは予断を許さない状況だという。 命に別状はないだろうが、後遺症が残るかもしれないと、 医師は去り際、そう語った。 「折戸……くそっ、何でこんなことに……」 倒れた友にかぶせられたシーツを強く握り締めながら、 麻枝は無念を言葉にした。 いたると久弥も、口にこそしなかったものの、 同じ想いであることは確かだった。 折戸の回復を祈りながら病室をあとにした三人は、 廊下に並べられた長椅子に腰を下ろした。 沈黙と静寂が、交互に彼らを包み込む。 息苦しさに耐えかね、口を開こうにも、ふさわしい言葉が見つからない。 麻枝が、鈍く呟く。 「……戦争だ」 「え?」 突然の独白をよく聞き取れなかったいたるが、 伏せた顔を覗き込むように聞き返した。 「戦争だ……絶対に許さん……」 「麻枝くん?」 憎悪に身を焦がす麻枝の静かな怒気に押されるように、 いたるは目を見開き、のけぞる。 「いたる、久弥……こいつは弔い合戦だ。奴らにも同じ目をあわせてやる…… 笑っていられるのも今のうちだ……待ってろ、リーフめ!」次を読む
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