『Kanon』に登場する一人の少女との出会いが、彼の心に決定的な楔を打ち込 んだ。その少女の名は、沢渡真琴。彼女の正体は、幼少期の主人公と過ごした日々 が忘れられず、人の温もりを求めたがゆえに、人間の姿を取って彼の前へと現れた 妖狐。しかし、憎まれ口を叩き合いながら過ごした楽しい日々は長く続かず、やが て彼女からは少しずつ人間らしさが失われていく。そんな哀切極まるストーリー展 開に、彼はマウスを固く握り締めながら、ただただ涙を流しつづけた。 真琴の口癖や立ち居振舞い、それらすべてが彼の心の琴線に切なく触れ、彼は何 かに憑かれたかのように再プレイを繰り返すのだった。それまで彼の心の大部分を 占めていた七瀬留美という少女の存在は、すでに記憶の外へと追いやられていた。 そして十数度目の出会いのシーン。黄昏の中に佇む真琴の姿を目にしたとき、雷 に打たれたかのような衝撃と共に、彼は確信した。もしもこの世に運命的な何かが あるとすれば、真琴と自分の邂逅こそがそれにあたるのだと。でなければ、自分の 彼女に対する恐ろしいほどの愛情の強さを説明できないではないか。 しかしその認識は、同時に彼に激しい焦燥をももたらした。真琴は、あくまでも 『Kanon』というゲームの中の存在なのだ。どんなに彼が真琴のことを想って も、彼女はいつもモニタの中で微笑むばかりで、決して血の通った存在として、彼 の目の前に現れることはないのだ。彼我を隔てるあまりに強固な壁の存在に、彼は 歯噛みせずにはいられなかった。 イベントに足を運び傍目も気にせずその名を絶叫したところで、彼の声が真琴に 届くことはない。彼女の絵姿がプリントされた抱き枕も、人肌の質感とは似ても似 つかぬもので、彼の心を満たすには至らなかった。真琴との交わりを想像しながら 自慰に耽っても、彼女の体内に放たれたはずの熱い飛沫は、自分の掌から空しく零 れ落ちるだけなのだ。 どこにも捌け口を見つけることのできないまま、真琴への想いだけが心中で際限 なく膨らんでいく。いつしか彼は大学へ足を向けることもなくなり、自室で悶々と した時を過ごすようになっていた。たとえ一瞬でもいい、真琴の体を自らの腕の中 に抱きしめることができれば、自分は悪魔に魂を譲り渡しても後悔しないだろう… …。零度を下回った水が氷へと姿を変えるように、ゆっくりと、しかし確実に、彼 の中で一つの狂気が形作られていくのだった。 (この項終わり、本編に続く)次を読む
【TOP】