1999年、夏。 冷房の効いたビルの一室で、高橋は頭を抱えていた。 彼を悩ませるのは、ノストラダムスが残した予言ではない。 「単なる一発屋だ。我がリーフ帝国の敵ではない」 少なくとも、発売される前はそう思っていた。 しかし、高橋のもとに届けられた報告は、彼を驚愕させるのに十二分だった。 keyの処女作であるKANONが、 同時期に発売された「こみっくパーティ」の売上に肉薄しているというのだ。 報告書は続ける。 KANONの評価は、かつて一世を風靡したToHeartに迫る勢いだ、と。 レポートに視線を走らせる高橋の頬から、徐々に血の気が引けてゆく。 白い歯は唇を噛み、束ねられた紙を掴む指先は震えている。 ビジュアルノベル三部作を完成させて以来、 王者としての振る舞いを片時も忘れることのなかった高橋だが、 この時ばかりは、迫り来る追走者の足跡に危機感を抱かずにはいられなかった。 テーブルにレポートを叩きつけると、高橋は内線に手をかけた。 数分後、高橋の待つ部屋のドアがノックされた。 「入れ」 「失礼します」 起伏のない高橋の声に促されて入室したのは、同じくリーフの一員である青紫である。 性別を判別しかねる名前から、ネットでは様々な憶測が飛び交っている。 なかでも興味深いのが、青紫が現役の女子高生ではないかというものである。 その真偽は、ここでは触れないでおこう。 「青紫」 厳かに、高橋は口を開いた。 「KANONの評判は、お前の耳にも届いているな」 同意を求められた青紫は、高橋のただならぬ表情に肩をすくめた。 「はい、人づてですが、大絶賛だと」 「そうだ。しかも、売上も我らが『こみっくパーティ』に迫る勢いだ」 返答に窮し、青紫は視線を床に落とす。 もっとも、高橋は返答など期待してはいなかった。 「このままでは、下手をすれば、トップメーカーの座を奴らに奪われてしまう」 ……それはあんたが新作を書かないからだ。 青紫は、日ごろの高橋への不満を吐き出すように、心の中で毒づいた。 「だが、奴らにも不安材料はある」 「それは?」 「鍵っ子だ」 高橋の口からつぐまれた言葉の意味が分からず、青紫は沈黙をもってその旨を伝えた。 「鍵っ子というのは……まあそうだな、分かりやすく言えば、 新手のカルトのようなものだ。口で説明するより、実物を見たほうが早いな」 壁際に置かれたデスクトップパソコンに歩み寄ると、 高橋は鍵掲示板を開き、青紫を手招きした。 「これが鍵っ子だ」 青紫の網膜に、尋常ならざる文字が焼きついた。 「ゲームで初めて泣きました」 「最高です。これで泣かないのは人間じゃない」 「友達に布教してます」 目を丸くしながら、青紫は感想を漏らす。 「信者というのは、時代とジャンルを問わずウザイものですが、こいつらは別格ですね」 未知との遭遇を果たした青紫の表情を楽しむように、高橋は微笑した。 「こいつらを使ってkeyを壊滅に追い込む」 「どういうことです?」 青紫の疑問に、高橋は失笑をもって答える。 「分からないか? ネガティブキャンペーンに利用するんだよ。 keyのファンはこんな奴ばかりだ、と」 高橋の意図するところを性格に把握し、青紫は頷いてみせた。 「具体的にどうするんですか?」 「簡単なことだ。鍵っ子の愚行を紹介するサイトを開き、笑いものにすればいいのさ」 たしかに簡単なことではあったが、では誰が、それを実行するというのだろう。 「そのためにお前を呼んだんだ」 高橋は、首をかしげる青紫を見つめた。 「お前にその実行役を任せる」 「ええ? 私がですか!?」 不名誉な命令に、青紫は嫌悪の念を隠そうとはしない。 「そうだ。成功すれば、『志保シナリオ』の件は許してやる」 志保シナリオ――それは、今や青紫の代名詞とも言える言葉だった。 「……分かりました、やればいいんでしょ、やれば」 肩を落とし、深く溜息を吐く青紫。 「せっかくだから、お前にコードネームを授けてやろう」 ……いらねえよ、そんなもん。 「そうだな……keyだからポンキッキー、ポンキッキーといえばガチャピン…… よし、お前のコードネームはガチャピンだ」 こうして青紫は、keyへのネガティブキャンペーンに身を投じるのであった。次を読む
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